アシスタント時代

来年、楽しかったパリアシスタント時代を終え帰国してからちょうど30年になる。僕は学生時代に横木安良夫さん、吉村則人さん、
パリでローレンス・サックマン、ミッシェル・ベルトンと4人のカメラマンのアシスタントを務めた。横木安良夫さんは講談社の編集者から、吉村則人さんは大学の教授から、ローレンス・サックマンは小暮徹さんから、
ミッシェル・ベルトンはリンドバークのアシスタントをしていた白松さんからと、自分から師事したいと思ってアシスタントになったカメラマンはいない。
もちろん師事したいと思っていたカメラマンがいなかった訳ではないが、
チャンスがありながら師事出来なかった。

最初に付いたローレンス・サックマンがアルコール依存症になりパリからいなくなった時、師事したかったカメラマンは当時ELLEのメインカメラマンのオリヴィエロ・トスカーニ。トスカーニはKENZOの仕事もしている事もあってKENZOの仕事をしていた安斎さんから紹介してもらったがその時ちょうどアシスタントが変わったばかりと言う事で断られた。

ピーター・リンドバーグはミッシェル・ベルトンを紹介してくれた白松さんが付いたばかりだった。運悪くと言うかミッシェル・ベルトンについて半年くらいしてから白松さんが帰国する事ということでリンドバーグのアシスタントを引き継がないかと連絡があったがミッシェル・ベルトンにリンドバーグのところに行くとも言えず当時一緒に住んでいたZIGENを紹介する事になった。
その後すぐにトスカーニが空いたと言う連絡があったがリンドバーグはともかく
これは断わらなければならなかった。理由はミッシェル・ベルトンとトスカーニの奥さん(共にスーパーモデル)が親友と言う事もあり二人は家族ぐるみの付き合いをしていてスタジオであっても子供の話をするような関係だったからだ。
泣く泣く、サッシャのアシスタントをしていた倉田君に紹介する事になった。

僕に有名カメラマンからオファーが来る理由はただ一つ、ローレンス・サックマンのアシスタントを1年半もやっていたと言う事だ。サックマンはギイ・ブルダン、ヘルムート・ニュートンと並ぶVOGUE PARISの主軸カメラマンの一人だが別の顔はギイ・ブルダンと並ぶ『要・取り扱い注意カメラマン』の一人。
そのカメラマンに1年以上付いてたアシスタントは「使える」という理由だ。

パリのファッションフォトグラファー御用達の『ピンナップ・スタジオ』 で
パオロ・ロベルシーにあった時、彼から「お前はローレンスの所に何日いたんだ」と聞かれた事がある。「1年半いました」と答えると、「トオル(小暮徹さん)の持っていた記録を更新したのか」と言われた。小暮さんの前はパオロ・ロベルシーが3ヶ月と言う記録を持っていたがそれを小暮さんが大幅更新して、それを僕がまた更新したと言う事らしい。ちなみに最短はロッター・シュミット で三日間と言う記録だ。ここで重要なのはアシスタントがクビになったと言うのではなく、アシスタンがカメラマンをクビにしたと言う点だ。
と言う事もあり日本人アシスタントは『辛抱強い』と言う理由で
僕に有名カメラマンからオファーがあったのだ。

今から考えてみるとトスカーニ、リンドバーグのアシスタントにならなかった、
いや、 ミッシェル・ベルトンのアシスタントをしたから今の自分があると思う。
ミッシェル・ベルトンはVOGUE BAMBINIなど子供の写真をメインに撮っていてトスカーニ、リンドバーグの様に『ザ・ファッションフォトグラファー』ではない。ミッシェルの写真にはファッション写真にはない『暖かみ』と『優しさ』がある。サックマンは若干18歳でニューヨーク近代美術館のパーマネントコレクション入る天才写真家そのアシスタントをしてその仕事と苦悩を見ていた僕は一時、ファッションフォトグラファーになる事を止めよう思った時がある。
そんな時ミッシェル・ベルトンに出会った事は僕にとっての大きなターニングポイントになった事は間違えがない。